
17歳の女の子が、たった1回の「平和学習」で命を落とした。
2026年3月16日、沖縄県名護市の辺野古沖。
同志社国際高校の研修旅行で基地移設反対の抗議船「不屈」と「平和丸」に分乗した生徒18人が荒波にのまれ船2隻が転覆した。
亡くなったのは2年生の武石知華さん。負傷者は16人にのぼる。
波浪注意報が出ていた。
海上保安庁の巡視艇が「気象、海象が危ない」とメガホンで警告していた。
辺野古の移設工事現場では大型作業船すら作業を中止していた。
それでも船は出た。
引率教員は、乗り物酔いを理由に乗船しなかった。
事前の下見は一度もなかった。
ライフジャケットの正しい着用方法すら誰も生徒に教えていなかった。
「教え子を戦場に送るな」の看板が泣いている
文部科学省は5月22日この研修旅行の内容が教育基本法14条2項に違反すると認定した。
政治的活動を禁じた条項への初の違反認定。
同校の安全管理は「著しく不適切」と断じられた。
これに対し、全日本教職員組合(全教)は5月27日、声明を発表。
「一方的な政治介入であり、断じて許すことはできない」と猛反発した。
さらにこう続けた。
「教え子を戦場に送り出した同じ過ちを繰り返すことにつながりかねない」。
心の底からぞっとした。
「教え子を再び戦場に送るな」は1951年に日教組の中央委員会で採択されたスローガン。
全教もこれを運動の原点として掲げ続けてきた。
戦時中、教師が教え子を戦地に送り出してしまった痛恨の反省から生まれた重い言葉。
けれど、いま問われているのはまさにそこ。
教え子を、安全基準もない抗議船に乗せて、荒れた海に送り出したのは誰なのか。
船には明文化された出航基準すらなかった。
海上運送法の事業登録もされていなかった。
船長は牧師で、自著のなかで「海は命の危険と隣り合わせ」「事故は必ず起こるもの」と書いていた。
その船に、17歳の高校生を乗せた。
戦場に送ったわけじゃないから許されるのだろうか。
結果としてひとりの少女が帰ってこなかった。
転覆した船底に救命胴衣が引っかかり浮上できないまま。
まもなく18歳になるはずだった女の子が。
全教の声明には安全管理の不備への真摯な反省がほとんど見えない。
事故の原因究明を求めてはいるものの主題はあくまで「文科省の政治介入への抗議」
亡くなった生徒への冥福は祈った。
でも、教職員組合として子どもを危険にさらした構造そのものへの自省の言葉が決定的に足りない。
同じく5月26日に声明を出した京都教職員組合も文科省の認定を「極めて恣意的」として撤回を要求。
「学校現場を萎縮させ、平和教育を後退させる」と訴えた。
さらに、京都府が検討する私学助成金の減額に対しても「予算を梃子に教育内容を統制するな」と反発している。
ちなみに京都教職員組合は京都府の公立学校の教職員で構成されていて私立校である同志社国際高校の教職員は加入していない。
直接の当事者ですらない組合がなぜこれほど強い調子で「撤回」を叫ぶのか。
問われるべきは「平和教育」の名を借りた偏向と無責任
文科省の調査で明らかになった事実は、ずしりと重い。
研修旅行のしおりには2015年から2018年にかけて、ヘリ基地反対協議会による「座り込み」への参加を呼びかける文書が掲載されていた。
「共に闘うために」「まず一緒に座り込んでください」。
これが、学校が生徒に配布した公式資料に載っていた。
開会礼拝では、船長である牧師が複数年にわたって自らの抗議活動を語り、「あえて制限区域に入って抗議する」「逮捕される」と生徒の前で公言していた。
辺野古コースの案内では「きれいな海を見ることではなく、基地建設に反対する人が対峙する現場を見ること」が目的だと教員から生徒にメッセージが送られていた。
多角的な視点の提示はなかった。
さまざまな立場からの見解を学ぶ場が設けられていたことは、確認できなかった。
これを「平和学習」と呼べるのか。
わたしは沖縄の平和教育そのものを否定したいわけじゃない。
戦争の記憶を学び基地問題の現実を知ることは大切だと思う。
でも、それは「特定の政治的立場に生徒を導く」こととはまったくちがう。
賛成の立場も反対の立場もある。
その両方を見せたうえで、生徒が自分の頭で考える。
それが本来の教育のはず。
ところが教職員組合は文科省の違反認定に「政治介入だ」と声を荒らげるばかり。
安全管理の杜撰さについても、偏った教育内容についても正面から向き合おうとしない。
「教え子を戦場に送るな」というスローガンの本質は何か。
子どもの命を大人の都合で危険にさらしてはいけないということだろう。
ならば、安全基準もなく事業登録もなく下見もせず、引率教員も乗せなかった抗議船に生徒を押し込んだ行為はまさにそのスローガンへの最大の裏切り。
自分たちのイデオロギーに沿う行為なら「平和学習」と呼び行政が是正を求めれば「政治介入」と叫ぶ。
このダブルスタンダードをもう見過ごすわけにはいかない。
武石知華さんのお父さんは、noteにこう綴っている。
「知華の死が無駄にならぬよう」
その言葉の重みを、声明を出した教職員組合のひとたちは、本当に受け止めているのだろうか。
わたしたちが守るべきは、スローガンではなく教え子そのもの。
あの日、辺野古の海に沈んだ17歳の未来をもう取り戻すことはできないのだから。



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