
亡くなった24万人の魂が見ていたとしたらどう思っただろう。
6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で営まれた沖縄全戦没者追悼式。
沖縄戦から81年を迎えたこの日、静かに祈りを捧げるべき場所でまたしても起きてしまった。
高市早苗首相があいさつに立った瞬間、「戦争反対!」という男性の怒号。
続けて「9条を守れ!」「24万人に謝ってこーい!」という絶叫。
さらには「出ていけ!」「帰れ!」「沖縄に来るな!」と、次々に罵声が浴びせられた。
ヤジを飛ばしていたのは1人ではない。
少し遅れて女性の「反対!」という声が重なり拍手のような音まで聞こえたという。
複数の人間が示し合わせたかのように、集団で席に座り首相のあいさつ中に叫び続けていた。
戸田市議の河合ゆうすけ氏が公開した動画には、警備員がヒートアップした人物を連れ出す様子がはっきりと映っている。
あきれて言葉を失う。
これは戦没者追悼式。
戦争で命を落とした人々に静かに祈りを捧げる場。
政治的な主張をぶつける集会ではないし、ましてや怒号を飛ばすデモの現場でもない。
8月6日広島でも毎年行われる左翼の蛮行。
誰のための式典かこの人たちはわかっているのだろうか。
毎年くり返される「恒例行事」という異常
驚くべきことに追悼式でのヤジは今年にかぎった話ではない。
毎年のように首相のあいさつの場面で同じことがくり返されてきた。
2024年の追悼式でも、岸田文雄首相(当時)のあいさつが始まると同時に「帰れ」「沖縄を戦場にするな」という叫びが響いた。
会場内に紛れ込んだ男が「岸田~~~!」と絶叫し、警備に制止される一幕もあったと八重山日報は報じている。
同紙の仲新城誠記者は「恥ずべき光景」と断じ、「残念なことに追悼式では毎年の『恒例行事』と化している」と嘆いた。
そうもはや恒例。
鎮魂の場を毎年のように踏みにじる行為が常態化しているという、ぞっとするような現実がある。
会場の入口には、沖縄県が参列者に向けて「大声を出さないように」と求める注意書きの看板を設置している。
金属探知機を使ったボディチェックまで実施されている。
それでも大声を出す目的で潜り込む人間を防ぎきれない。
なんとも歯がゆい状況が続いている。
わたしは特定の政党を支持しているわけではないけれど、ひとつだけはっきり言いたいことがある。
追悼式は政治闘争の道具にしていい場所ではない。
改憲に反対するのも基地問題に声をあげるのも、それ自体は民主主義における正当な権利。
ただし時と場所がある。
戦没者を悼むための式典で、首相に罵声を浴びせて何が生まれるのか。
自分たちの主張への共感? とんでもない。
多くの国民がまゆをひそめ、「またか」とため息をつくだけ。
結局、自分たちの運動の品位を自ら落としていることに気づいていないのがいちばん痛い。
高市首相の冷静な一言が際立った
対照的だったのは、高市首相の対応。
式典後のぶら下がり会見で東京新聞の望月衣塑子記者から「戦争やめろ」「憲法守れ」というヤジがあったことを伝えられると高市首相はこう答えた。
「『戦争をやめろ』って、いま、日本は戦争をやっておりません。平和国家としての歩みを戦後ずっと続けてきたというのが日本国の誇りだ」
実にシンプルで、ぐうの音も出ない返答。
日本は戦争をしていない。
これは紛れもない事実であり戦後81年間にわたって守り抜いてきた誇りそのもの。
「戦争をやめろ」というスローガンがいま現在の日本に対して的外れであることをたった一言で明確にした。
さらに高市首相は「平和を守るために、国民の命を守るために防衛力はしっかりと自主的に強化したい」とも述べている。
平和を願う気持ちと現実の安全保障に向き合う姿勢。
このふたつは矛盾しない。
むしろ両立させることこそが政治の責任だと、わたしは思う。
印象的だったのは、自民党の新垣淑豊沖縄県議がSNSで紹介したエピソード。
一緒に式典に参加した20代の若者たちが、高市首相への批判の横断幕を掲げるグループを見てこう話したという。
「きょうはそのような政治的主張をする日ではないのでわたしたちは持ちません」
この若者たちのほうがよっぽど大人の判断をしている。
追悼の場で何を優先すべきか。
静かに祈りを捧げるという当たり前のことを当たり前にできる感性。
その真っすぐな姿勢に胸が熱くなった。
一方、共産党の田畑翔吾浦添市議は「ヤジではなく心からの叫びだ」と擁護した。
心からの叫びだとしても、それを向ける場所が違う。
静かに手を合わせている遺族のそばで怒号を飛ばすことが「心からの叫び」として正当化されるなら追悼式は成り立たなくなる。
わたしたちが忘れてはいけないのは、あの場に集まった人々の大半が、ただ静かに祈りたかっただけだということ。
沖縄で命を落とした20万人を超える人々への哀悼。
遺族の方々の消えることのない悲しみ。
その思いに寄り添う場を、一部の人間の政治パフォーマンスが汚してしまう現実をわたしはどうしても許せない。
追悼式は右も左もない。
イデオロギーではなく、ただ命への敬意だけがある場所。
来年こそ、静かに穏やかに、祈りだけが響く慰霊の日であってほしい。
心からそう願っている。



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